• コーヒーの歴史

うまずたゆまずコツコツと・・・他に手品は無いですなぁ(石光商事名誉会長 石光氏インタビュー)

石光商事株式会社名誉会長 石光輝男氏 (2022年6月取材。99歳)

日本のコーヒーのはじまりと石光商事

ユーエスフーズの親会社である石光商事の前身は、明治39年(1906年)に父である石光季男がロサンゼルスで立ち上げた、日系移民向けの日本食品販売会社です。
明治の初期、開国したばかりの日本は、神戸の港から日本全土で産出する日本茶のほとんどをアメリカに向けて輸出していました。
その日本茶を非常に好んでいたアメリカ人が、日清戦争、日露戦争と日本のお茶が手に入らない時期が続くうちに、いつの間にか紅茶やコーヒーに消費が移っていったのです。
その後アメリカ人がお茶に戻らず、コーヒーを好み続ける様子を見て、同じ現象が日本人にも起こるのではないかと考え、コーヒーの取り扱いが始まったそうです。
大正8年(1919年)のサンフランシスコ支店に、初めて“Coffee”の文字が掲げられました。

日本への帰国、終戦

その後戦争の影響で日系移民の排斥運動が激しくなり、やむなく日本に帰ることになったのですが、その時に商材としての焙煎機やコーヒーを挽くミルなどを持ち帰ったようです。
私は家族が日本に帰国した翌年の大正12年(1923年)に神戸で生まれました。
その時にはもう父がコーヒーの商売もしておりましたので、物心がついた頃には住まいの納屋にコーヒー生豆が置いてあったりしましたね。
父の会社にもよくついていって、その仕事をみたりしていました。
私自身が本格的にコーヒーに携わったのは、軍隊へ行き、終戦を迎えて神戸へ戻り、数年別の会社で経験を積んだのちの昭和25年(1950年)頃、兄とともに父の会社に入ってからです。
当時の神戸ではミルクホールと呼ばれる店が多数あり、労働者が新聞を読みながらコーヒーやミルクを飲むという形が流行していました。
私たちはそういったお店に焙煎豆を卸す業者さんに生豆を販売しておりました。

海外で見たコーヒーの未来

そのころはまだブラジル、インドのように国の名前だけの商品が多かったのですが、1970年前後には2か月ほど生産国を渡り歩いて、更なる勉強と商品開発をしました。
まだまだ海外旅行が珍しかった時代ですね。
その際に持ち帰ったコーヒーの中には生産エリアや生産者を指定したものもあり、正に現在のスペシャルティコーヒーにつながるような商品づくりが始まっていましたね。
また、消費の先進国でもあったドイツなど、ヨーロッパの視察にも業界の仲間たちと積極的に出かけました。
すでにドイツでは大型の焙煎機を使用した工業用の焙煎が行われていましたし、チェーンストア展開をしているお店もありました。
すぐに日本も同じようになるだろうと想像ができましたね。

ユーエスフーズの子会社化

ユーエスフーズをグループ会社として受け入れることについては、大手飲料メーカーさんからのご提案がきっかけでした。
メーカーさんも、生豆の商売なので石光商事の方が適しているのではないかとのことで、おすすめしてくれたんですね。
当時我々の商売ではなかなか自家焙煎店さんや、末端の消費者まで目が届かなかったものですから、ユーエスフーズを子会社にすることはとても意義のあるものでした。
何度も創業者である紫竹さんのところに通って、仕事内容や10kgの小分け袋見せていただいたことを覚えております。
その後年々自家焙煎のお客様が増え、今でも多くの方にご贔屓にしていただいているのは大変うれしいことですね。

うまずたゆまずコツコツと

    私が営業として全国を駆け回っていた50~60年前と今を比較しても、コーヒーが飲まれる場所や飲まれ方については大きく変わっていないように感じております。

    長く商売をやっていく秘訣ですか?
    そうですね・・・真面目に倦まず弛まずコツコツとやっていくこと、それが信頼につながっていくものですから、他に手品はないですなぁ。

    コーヒーは今でも毎日飲みますよ。
    私が99歳ということもあり、よく長寿の秘訣にコーヒーはいいのでしょうかと聞かれますが、もちろんそうだと答えますね。
    その方がよりコーヒーを飲んでくださるでしょうから。
    もっと多くの皆さんがコーヒーを楽しんでくださることを願っております。